京都単独煩悩紀行 >> 番外編という名の補足・オマケ

京都への煩悩に花を添える役割を担ってくれる事柄についてのコーナーです。
まだ少ないですが順次増やしていくつもりです。
※東京国立博物館レポのコーナー「そうだ 東京国立博物館、行こう」を独立させて
空海さん展と最澄さん展を追加しました。


●戦慄の早良親王廃太子事件
そうだ 東京国立博物館、行こう
没後500年特別展「雪舟」
弘法大師入唐1200年記念「空海と高野山」
天台宗開宗1200年記念特別展「最澄と天台の国宝」
桜図鑑(ヘッポコ)
● 戦慄の早良親王廃太子事件

早良(さわら)親王
光仁天皇の皇子。桓武天皇(在位781年〜806年)の同母弟。

早良親王は幼くして仏門に入り東大寺羂索院(三月堂)などに住み、父の光仁天皇即位によって親王となった後も「親王禅師」として東大寺では重要な地位にあった。

天応元年(781)同母兄である山部親王が桓武天皇として即位すると、父・光仁天皇の希望により図らずも皇太子に立てられることになった。しかし長岡京遷都翌年の延暦4年(785)、造長岡京使・藤原種継暗殺事件に関与したとして幽閉され皇太子を廃されてしまう。早良親王は絶食して無実を訴えたが聞き入れられず、淡路への配流途中で衰弱しわずか36歳で亡くなった。その後、皇太子に立った桓武天皇の皇子・安殿親王の病や近親者の相次ぐ死、疫病の流行など、桓武天皇は早良親王の祟りに悩まされることになる。

桓武天皇がわずか10年で長岡京を去り平安京に遷都したのは、この早良親王(と、同じく桓武天皇がらみの廃太子事件で獄死した井上皇后、他戸親王)の怨霊を恐れたためとも言われている。様々な魂鎮めが行われ、延暦19年(800)にはついに早良親王へ「崇道天皇」の追号が贈られた。また淡路にあった墓も山稜に改められ大和国の八嶋へ改葬された。
その八嶋御陵は現在の奈良市にある。奈良市内にはいくつかの崇道天皇社御霊神社があり、早良親王が祭神として祀られているそうである。

・・・というようなことを、上御霊神社崇道神社を訪れたあとで知りました。(早良親王は京都市内では他に下御霊神社にも祀られています)
早良親王は平安京遷都のいきさつに深く関わっているかもしれない人物であり、怨霊信仰ブームの火付け役(!?)ということになるのでしょうか。今、妙に早良さんが気になります。

早良さんと桓武天皇の父である光仁天皇は後継者争いを避ける目的もあって早良さんを皇太子に立てたようなのですが、それもむなしく結局は桓武天皇の「わが子に皇位を継がせたい」という思いその他モロモロがからんで早良さんは失脚させられてしまうわけですね。
早良さんは藤原種継暗殺事件に関与しておらず全くの無実だった…という証拠は特に無さそう?なのですが、祟りの強さと桓武天皇の異常なまでの恐れかたからすると、やはり仕組まれた冤罪だったということになるのでしょうか。

桓武天皇とは実の兄弟とは言え親子ほども年が離れていますし、早良さんが仏門にあって平城京・東大寺での有力者だったということは、新体制というか長岡京側の人間にとっては「廃しておくべき目障りな存在」だったのだろうか、などと思えてしまいます。幼い頃から信心深く励み東大寺を仕切る立場にまで上り詰めたというのに、政の場に引っ張り出されたあげくのこの仕打ち…確かに死んでも死にきれないことだったでありましょう。


▲上御霊神社
▲夕暮れの崇道神社(怖!)

桓武さんはこれに懲りたかと思いきや、何やら別方面では派手な噂もあるようですが…それについては奥が深そうなので現在取り調べ中です。早良さん墓所の八嶋御陵が何故奈良市にあるのかもよくわかりませんので(東大寺と奈良繋がりということでいいのか??)これらを次回までの宿題ということにさせて頂きます。(次回があるのか??)

以上、古代史ファンのかたがたのお目にかけるのは大変お恥ずかしい内容でした。今後もっと精進してマトモに古代史を理解できるようになるつもりです。(2004年2月)


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