箱庭的世界 >> 京都単独煩悩紀行 >>皐月、睡蓮、花菖蒲・第2日目-4

 ●戒光寺

泉涌寺塔頭。安貞2年(1228)宋から帰国した曇照上人により戒律復興のため建立された戒光律寺がもとである。応仁の乱で焼失して各地を転々としたのち、正保2年(1645)後水尾天皇の発願により泉涌寺山内の現在地に移った。慶応4年には御陵衛士伊東甲子太郎藤堂平助ほか4名の墓が山内墓地に改葬されている。
身代わりの丈六さん」と呼ばれる高さ約10mの木像釈迦如来立像運慶・湛慶親子の作。

せっかくなので御陵衛士のお墓参りをさせて頂こうか、という気分で境内に入った。
境内左側にある真っ赤な鳥居の融通弁財天が鮮やかなサツキに囲まれていてひときわ目をひく。この秘仏弁財天像は先程の雲龍院と同様に泉涌寺七福神の一つで、成人の日に行われる七福神巡りでご開帳されるとのこと。最澄作と伝えられるそうだが…本当だろうか?

境内右側にある本堂の存在をつい忘れてしまいそうだが、「御陵衛士のお墓参りの人はまずご本尊も参拝して下さいね」という意味の張り紙があるので忘れてはいけない。
それだけではなく、このご本尊は身長約5.4m、光背など含めると約10mの珍しい宋風大仏様なのである。実際は一丈八尺あるが、大きな仏様という意味で丈六(一丈六尺)と呼ばれるそうだ。

江戸初期、後水尾天皇が暗殺者に襲われた際にこの像が身代わりになって血を流した、ということから皇室に縁のある泉涌寺に近いこの地に移転することになり、像は「身代わりの丈六さん」と呼ばれることになったそうなのである。首にはその時の血のあとが残るとか。
そんな由緒ある丈六さん、屋根の高い本堂に窮屈そうに祀られている…のだが何故かあまり記憶がない。ちゃんと拝顔したはずなのだけど…。機会があったらまたいつか伺いますのでお許し下さい。


▲泉涌寺七福神の融通弁財天
▲御陵衛士4名の墓所。左から2番目の
ちょっと大きいのが伊東甲子太郎の墓

ここの開祖である曇照上人は、鎌倉期に衰えていた戒律の教えを復興させようという精神のもと、泉涌寺とこの戒光寺を拠点に活動したそうである。ところが泉涌寺は律を基本としているものの天台・真言・禅・浄土の四宗兼学道場だったし、泉涌寺・戒光寺ともに現在は律宗でも真言律宗でもなく真言宗である。な、何故だろう? どの宗派でも戒律の重要さに変わりはないということなのだろうか。
戒光寺がこんなに奥が深いならもうちょっと真面目に調べてから拝観すれば良かった、と、あとになって思うのはいつものことだ…。

最後に、お隣の即成院を越えて“飛び地境内”にある御陵衛士の墓へ。入り口の木戸が運良く開いていたので(いつも開いているのか?)おそるおそる入らせて頂いた。
御陵衛士と戒光寺は深い関わりがあったため、改葬は盛大に行われ手厚く供養されたそうだが、今こうして見るとどうしても場所がら隅に追いやられているようなもの寂しさを感じてしまう。特に御陵衛士ファンというわけではないが、しっかりと拝んできた。


●即成院のサツキ

ついでに(失礼!)那須の与市の墓がある即成院をちょっとだけ覗いてみた。与市さんについては全く勉強不足で、千葉県松戸市名産の「茄子のよいち漬」しか思い浮かばないが、那須の与市と松戸は無関係らしいということだけは聞いた覚えがある。
ここで中途半端に時間が余ってしまったので予定外の東福寺へ。即成院からは徒歩10分強ほどなので、一日歩きまくった足にはややキツかった…。




●東福寺の緑とサツキ

拝観終了時刻を過ぎてしまっていたが、通行自由の境内で何か見られそうな気がして寄ってみたのである。すると日下門を入ってすぐのあたりにちょっと野性的なサツキがあった。
内部には方丈庭園の市松模様の刈り込みの他、確か開山堂あたりにもサツキがあったはずなので、機会があったら見に行きたいと思う。

←左:鐘楼前のサツキ
 右:奥に見えるのは禅堂


帰路、東福寺駅近くの「ここはな」で冷たいものを飲んで一息入れた。いつも満員なのに落ち着ける不思議な和韓折衷(?)カフェである。
夕食はちょっと頑張って、風情ある祇園白川沿いの割烹「ぎおん琢磨」を予約してみた。店に入ってびっくり、余計なものが全く無い清潔でシンプルな空間にカウンターがどーんと伸び、正面の窓はバーンと白川に面している。桜の季節にはどんなに見事だろうかと想像すると恐ろしくなるほどだ。
いつもの予算より少し奮発したコースを頂いてみた。当たり前すぎず、かと言って奇をてらいすぎない手の込んだ料理が次々に出てきて大満足。しかも祇園の割烹らしからぬコストパフォーマンスの高さ。次は誰かを誘って来てみたいと思わせてくれるお店でした。 〈3日目につづく〉


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