箱庭的世界 >> 京都単独煩悩紀行 >> 花の命は長持ちで・第2日目-2

 ●大覚寺

(大覚寺の歴史は2003年春の項にあります)

薄曇りながら前回訪問時の条件の悪さとは雲泥の差で、満開の桜が心の底から嬉しい。表門の手前、嵯峨華道専門学校の前あたりにも桜その他多くの花が見られた。

式台玄関から内部に入り、伽藍の周囲にジグザグに張り巡らせるように作られた回廊を渡って進む。回廊はその形から「村雨の廊下」または「稲妻の廊下」と呼ばれ、床は鶯張りで、侵入者を防ぐ役割があるそうだ。独特の風情があって、歩くのも楽しい。


▲大沢池東側から見た心経宝塔

多くの伽藍の中心あたりに配置された立派な御影堂が本堂に思えてしまうが、実は一番奥の池のほとりに立つ五大堂が本堂である。御影堂はもと大正天皇の即位式場だった建物を式後に移築したものだそうだ。式典で一度使用しただけのものを移築とはなんとも忙しい話だ。内部にはこの寺ゆかりの嵯峨天皇弘法大師後宇多法皇恒寂法親王(初代住職)の尊像が祀られている。で、五大堂はその御影堂移築の際に現在地に移されたらしい。

この日は伽藍のどこかにシートが掛けられ修復工事中だったはずだが、さてどこだったっけ? 五大堂と派手な朱塗りの御霊殿は通常通りだった記憶があるので、やはり御影堂が修復中だったのだろう(自信が無い…)。大覚寺中興の祖と呼ばれる後宇多法皇の「御入山七百年記念整備事業」の一環として境内で行われている工事のひとつだったようだ。

五大堂東側の広いぬれ縁からは、日本最古の庭苑地である大沢池を一望することが出来る。池を見ながら少し休憩できるかな、と思ったら何故か新商品のコーヒーの試飲会がおごそかに催されていた。朝、天龍寺参道で見たコーヒー会社の宣伝パネルはこの試飲会で使うものだったのだ!
しかしあいにく席は満杯、残念ながら待つ時間もないので試供品だけ頂いて先へ行くことにした。

正寝殿は大小12の部屋に分かれた客殿で、復元された「上段の間」(御冠の間)は後宇多法皇が院政を行った部屋だそうである。別の部屋では例のちょっと不気味な渡辺始興筆「野兎図」を見ることができる。前回調べた本の記述では「幼い門主を慰めるために描かれた」とされていたが、どうもそのへんさだかではないらしい。やはり子供の目には好き嫌いがありそうな気がするこの絵。謎である。

これで内部拝観はおしまい、外へ出て池の周囲を散策した。
五大堂手前の門から先程のぬれ縁の下へ出て、池周囲にぐるりと咲くソメイヨシノを堪能する。ソメイヨシノは5〜6分咲き程度から満開まで混在しているようだ。


▲勅使門と枝垂れ桜つぼみ
▲ネ○カフェの試飲会看板

▲正寝殿 腰板の野兎図
▲大沢池対岸から見た心経宝塔

心経宝塔近辺には小さな枝垂れ桜も数本あり、地元の親子連れなど人出は多いが、比較的ゆったりと花見ができた。池には龍の頭と鳥の首「龍頭鷁首」が着いた屋形船が浮かんでいる。観月会の時にはここに茶席が設けられるそうだ。遊園地のアトラクションのようでちょっと可愛い。

散策中にかなり風が強くなってきた。対岸から心経宝塔と桜が薄黄色に霞んで見えるほど埃っぽい。撮影しにくくなるのを懸念しながら池を一周して門前に戻り、タクシーで太秦の広隆寺を目指した。 〈つづく〉




 ●広隆寺

山城最古の寺院。聖徳太子建立の「七大寺」の一つ。新羅系渡来人・秦氏の子孫である秦河勝(はたのかわかつ)が、推古天皇11年(603)聖徳太子から譲り受けた仏像を本尊として創建した蜂岡寺が前身とされるが、推古天皇30年(622)聖徳太子供養のため創建されたという記録もある。太秦への移転は平安遷都前後頃かと言われるが不明。度重なる災害で伽藍のほとんどを焼失したが永万元年(1165)にほぼ復興した。
国宝第一号の木造弥勒菩薩半跏思惟像など焼失を免れた多くの仏像が霊宝殿に安置されている。

京福嵐山線の太秦駅すぐそば、交通量の多い交差点に面した立派な仁王門はとても目をひく。いつもその前を通り過ぎるだけでなかなか拝観できなかったが、今回やっと機会が巡ってきた。

広隆寺創建については諸説あるようである。
日本書紀」には
推古天皇11年、聖徳太子から仏像を譲り受け建立。
広隆寺縁起」には
推古天皇30年、聖徳太子供養のため建立。

という記述があるそうだが、「聖徳太子から譲られた像を本尊として推古天皇30年になってから寺を建てた」とも受け取れるし、別の寺を建てたとも受け取れる。
広隆寺の旧名は蜂岡寺(現在の北野白梅町「北野廃寺跡」と考えられている)のほか秦寺・秦公寺・葛野秦寺などあり、同一の寺なのか二寺が合併したものがのちの広隆寺なのかさっぱりわからない。「日本書紀」と「広隆寺縁起」を一字一句もらさず読めば何か掴めるのだろうか…

仁王門をくぐり、ゆったりと落ち着いた境内に入ると右前方に講堂が見える。平安時代末期再建の京都最古の建物だそうである。確かに重みを感じるような気はするがあまり実感が湧かない…と思ったら建物外部は後世に修復を受けているとのこと。なるほど。
しかし伽藍には申し訳ないがそれよりも今は桜が気になる。ここのソメイヨシノはすでに満開ピークから散り始めの感じで、進行は早いようだ。本数は多くないが、有名寺院のわりに拝観者も少なくマッタリと花見ができる。本尊の聖徳太子像を祀った上宮王院太子殿横に固まって咲くソメイヨシノが美しかった。

境内から西に突き出たところにある桂宮院本堂は法隆寺夢殿に似た八角円堂だそうだ。通常は非公開だが4月は公開されているはず…なのに柵でふさがれていて行かれない? よく調べたら日曜・祝日のみの公開だった。残念。


▲上宮王院太子殿
▲上宮王院太子殿横の桜

▲弥勒菩薩半跏思惟像などが安置
される霊宝殿

上宮王院太子殿の奥には霊宝殿があり、多くの仏像を見ることができる。あの有名な国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像も安置されているのである。心持ち緊張しながら中へ入れて頂いた。
聖徳太子16才像やちょっと微笑ましい秦河勝夫妻像のほか、驚くほど手がボロボロの千手観音坐像、指を二本立てたトラボルタのような蔵王権現像など、各時代の仏像たちが並んでいる。
そして中央には弥勒菩薩半跏思惟像(通称「宝冠弥勒」)。うつむき加減にちょっと微笑んだ高貴なお顔に、ちょっとひ弱そうだが(失礼!)柔らかく優雅な線を描く体。仏像はみなそれぞれに美しいと思うけれど、何とも言えず魅了されるものがある。口元に小さな手を添えるポーズが妙になまめかしい。

この「宝冠弥勒」は、上記「日本書紀」の推古天皇11年の仏像、もしくは「推古天皇31年、新羅から送られた仏像を安置した」という記述の仏像のどちらかにあたるのではないかという説があるらしい。
しかしこの宝冠弥勒、朝鮮渡来のものなのか日本で制作されたのかはっきりしないようなのである。○作風が朝鮮風であること ○材質は日本ではほとんど使用しないアカマツ材だが、背板は朝鮮半島で自生しないクスノキ材であること など相反する特徴があって、いまだに制作地について結論は出ていないそうである。
「宝冠弥勒」の隣に安置されているやや小型の弥勒菩薩半跏思惟像(通称「泣き弥勒」)は全体がクスノキ材製なのでこちらは日本製なのかというとそれもさだかでないらしい。実に謎だらけの広隆寺だ。

門前にあるバス停からバスに乗り、やや離れた次の目的地、七本松通仁和寺街道上ル一番町の立本寺を目指す。ますます激しくなる強風でホコリが舞い、町中が黄色く煙ってきてしまった。道は渋滞がひどくなってくる。 〈つづく〉


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