箱庭的世界 >> 京都単独煩悩紀行 >> 躑躅、石楠花、杜若・第2日目-2

 ●勧修寺

昌泰3年?(900)醍醐天皇が生母・藤原胤子の菩提を弔うため、胤子の祖父にあたる豪族の邸宅跡を寺としたのが起源。皇室や藤原家の帰依を受け、のちに門跡寺院となる。兵火などにより衰退し秀吉の伏見城築城の際に寺領の多くを没収されたが、徳川家綱・綱吉の帰依を受け再興した。
書院前庭に徳川光圀寄進と伝わる勧修寺型灯籠と樹齢750年のハイビャクシンがあり、平安時代の面影を残す氷室池を中心とした庭園はスイレン・ハスなど季節の花で賑わう。

宸殿と謎の紅葉→

▲何故か足元が寂しい観音堂

▲氷室池のカキツバタ

▲カキツバタと観音堂

小野駅から案内板を見つつ少し歩くと勧修寺の山門に着く。長い築地塀に沿って桜並木があり春は歩くのも楽しかろうが、この時期は何もないのでちょっと飽きてくる。昼近くなると5月初めとはいえやっぱり京都は蒸し暑い。上着を脱いで拝観に向かった。

やけに明るい芝生の庭を持つ宸殿があり、何故か庭の一角に真っ赤に染まった鮮やかな紅葉が一本。そのまま奥へ進むと、ぽっかり開けた空間に観音堂氷室池が見えてきた。
よく写真で目にする観音堂は思いのほか小さく見える。芝生の端にぽつんと建っていて妙に可愛らしいが形は優美で、意外と新しく昭和初期に建てられたものだそうである。そのかわり氷室池は歴史があり、平安時代にここから氷を切り出しその厚さで農作物の豊凶を占っていたことから名付けられたらしい。江戸時代の名園カタログにも載っている由緒正しい庭・・・とはいえ自然の沼地のようにしか見えない。

藤棚のフジは見事に完全終了して干からびていた。スイレンが咲く頃には池はもう少し賑やかになるはずだが、今はちょうど杜若が見頃を向かえたばかりで、待ちわびていたカメラマンさんがたが場所取りをしている。その間へ割り込んで自分もあちこちから写真を撮ってみたがなかなか難しい。

池の周囲を移動していくと「この先行かれるのはご自由ですが大いに危険」豪快な墨字でババーン!と書かれた看板が登場〜。「わははは、これが噂の看板か」と内心ニヤニヤしながら進んでいくと、確かに全然整備されておらず足元が荒れているけれど余程不注意でない限り池にすべり落ちることもなさそう。
上を見ると島の高い木の上に白い鳥(サギ)発見。よく見るとあっちにもこっちにも。巣もかなりあるようだ。予備知識あったとはいえ結構感動してしまった。

サギを観察しつつ池の周囲を一周して観音堂前に戻ると、こちら側の入り口には例の看板が無いので皆さん躊躇せず入ってきているようだった。ダメじゃん徹底してないじゃん。
腹が減ってきたので、次の随心院への途中にある蕎麦屋に行くことにして勧修寺を出た。出た後に気付いたのだが、勧修寺の見どころであるハイビャクシン勧修寺型灯籠臥龍の梅、全部見忘れていたのである。我ながらそのマヌケっぷりに呆れてしまった…。また桜の時期にでも来てみることにしよう。意外に紅葉もイケてるらしいので来る機会はありそうだ。


その蕎麦屋は結構有名らしく、12時前に入ったにもかかわらずかなりの混雑でバタついていた。ひなびた風情を想像していたのでちょっと驚いたが「観光シーズンの日曜だし仕方ないか」と席について注文し、待つこと20分以上。おせーよ!と言いたいのを我慢してやっと来た蕎麦を頂いたが、ごく普通のお味だったような…。私が蕎麦ツウではなく味音痴だから?かもしれないのだが…なんとなく納得行かないまま店を出て随心院へ向かった。



 ●随心院

正暦2年(991)弘法大師の八代目の弟子にあたる仁海僧正が創建した曼荼羅寺が起こり。第5世の僧俊阿闇梨の時に塔頭として随心院が建立され、のちに後堀河天皇より門跡の宣旨を受けて門跡寺院となった。兵火により焼失したが九条家・二条家の援助などにより再建された。
小野小町の住居跡と伝えられ、化粧井・文塚・文張地蔵・卒塔婆小町像などゆかりの史跡が残っており深草少将の百夜通の舞台もここであるが、いずれも伝説の域を出ない。梅の時季には百夜通の物語をもとにした「はねず踊り」が催される。


▲本堂前の庭園。奥の方に石楠花が残っている

▲長屋門の端(?)とツツジ

▲この左側奥に梅園がある

▲左側奥が梅園

▲花のいろは…の歌碑と蓮弁祈願

ここは小野氏ゆかりの地であることは確かなようだけど、小野小町小野篁さんの孫にあたるという話はいまひとつ信憑性は少なそうだ。小町伝説は各地に異説が様々あって結局みな史実とは言い難い、というかほとんど史実は不明らしい。絶世の美女と言われながらイケイケな人生を送るわけでもなく何故そんなにむなしく年月を過ごしてしまったのだろう?

また、開基の仁海僧正はあの神泉苑で雨乞いの祈祷をたびたび行って雨僧正と呼ばれていたそうである。初代の空海さんといい、真言宗の僧は雨乞いが得意だったのだろうか?そのおかげで真言宗は栄えたのだろうか?

小町関係の史跡や梅の名所としての噂はよく聞くけど、ツツジもこの寺のチャームポイントとしてもっと広めてあげてもよいのではないかと思う。総門から続く参道沿いのツツジは背丈ほど高く立派に育った株(?)で、こってりした香りがムンムン漂ってくる。四角い梅園の敷地を囲むようにして植えられているようだ。近寄って見ると、見頃時期をやや過ぎているようでちょっと熟れすぎ崩れかかりの部分もあるけど遠目には充分美しい。しかもあまり近寄ると虫が凄いので危険ではある。

もう一つ門をくぐった中に「花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」の歌碑と庫裏があり、そこから内部拝観へ。文張地蔵卒塔婆小町像のほか定朝快慶作の仏像など結構凄い寺宝があるけれど、あんまり印象に残っていない…(^^;) 本堂前の庭園には花は少なく、奥の方に石楠花がかろうじて残っている感じでちょっと地味だった。意外と薄暗いかんじなので、かえって紅葉が色付く頃はきれいかもしれない。

外へ出て梅園のずっと横にある化粧井を見に行った。想像通り暗く無気味でとても井戸には見えない(どっちかというとトイレのよう)。全く想像もつかないけれど使われていた当時はどんな井戸だったのだろう…。本堂裏の方に文塚があるようだったが時間切れのためそちらはパスして次に行くことにした。
次は地下鉄小野駅に戻り、六地蔵でJRに乗り換えて黄檗駅から三室戸寺へ。 〈つづく〉


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