箱庭的世界 >> 京都単独煩悩紀行 >> 冷夏にも秋の暑さにも負けず・第2日目-1
【11月16日・詳細行程表】
 北山駅
  ↓(市バス)  
 一乗寺下り松町バス停  
  ↓(徒歩)
 詩仙堂
  ↓(徒歩)
 円光寺
  ↓(徒歩)
 金福寺
  ↓(徒歩)
 穂野出
 ↓(徒歩)
一乗寺下り松町バス停  
 ↓(バス)
修学院離宮道バス停
 ↓(徒歩)
山ばな平八茶屋
 ↓(タクシー)
西村家別邸
 ↓(徒歩)
上賀茂神社
 ↓(タクシー)
円通寺
 ↓徒歩
円通寺道バス停 
 ↓(京都バス)  
岩倉三宅町バス停 
 ↓(徒歩)
蓮華寺
 ↓(徒歩)
崇道神社
 ↓(徒歩)
三宅八幡駅
 ↓(叡山電鉄) 
出町柳駅
 ↓(バス)
川端二条バス停 
 ↓(徒歩)
新洞食糧老舗 
 ↓(徒歩)
三条京阪駅
 ↓(地下鉄)
ホテル


日曜日にはなるべく有名寺院は避けたいところなのですが、穴場ばかりで交通の便も考慮したコース設定をするのは至難のワザです。ですので詩仙堂・円光寺へ朝一で向かうことにしました。と言っても詩仙堂の開門は9時なのでべらぼうな早起きにはならないのですが。
バスで市内を延々移動するのは好かないので、まず地下鉄で北山駅まで行きそこから白川通を逆走する路線に乗りましたら、全く混雑も無く快適に到着できました。



 ●詩仙堂

寛永18年(1641)文人・石川丈山が隠居所「凹凸か」として建てた山荘がもとであり、現在は曹洞宗永平寺の末寺になっている。詩仙の間に中国の詩家36人の肖像が掛けられていることから詩仙堂と呼ばれる。高低差のある地形を利用して作られ「凹凸か十景」を見立てられた建物・庭園や丈山考案の僧都(鹿おどし)など、ほぼ創建当初の姿を残している。

ここは過去何度か訪れているが、そのたびに狭い堂内が多くの拝観者で混み合っている。今回は開門直後に到着したのだがすでに数人のかたが枯山水庭園(名前は無いのかな?)を観賞していた。
ところで、こういう庭園は座敷の中ほどから見たほうが全体が把握できて面白い。縁側近くまで前に出て座り込み長時間独占しているかたも多いようですがいかがなものでしょうか。時々は下がってみれば皆が景観を堪能できるし、うまくすれば人の背中が写り込まない写真も撮れるはずだと思うのですが…

枯山水庭園はわりと小さなものだが、白砂の庭とサツキの刈り込みの向こうの低い所に回遊式庭園(名前は無いのかな?)が造られているので、視界が大きく開けていて広く感じる。だんだん日が高くなり庭園奥の森からゆっくりと逆光が差し込んでくるのが見えて清々しい。残念ながら木々の紅葉は遅れているのか弱っているのか、やはりいまひとつのかんじだった。
しばらくのんびりしていると徐々に人も増えてきたので、サンダル(昔は足が砂まみれになる履きにくいゾウリだったが改善されたようだ)を履いて、段々畑のように広がる庭園に降りた。紅葉が淋しいので華やかさはないが、柿の実がなっていてのんびりムード。サツキやアジサイが咲く時期のほうがきれいなのかもしれない。

一回りして戻ってくると、堂上三階に不思議な丸窓の嘯月楼が見えた。数寄屋造りでありながら楼閣建築風を取り入れているのは石川丈山が元は武士であったことが一因かも、という話もあるようだ。
丈山は大坂夏の陣で戦功を挙げたが、腸チフス(!)で出立に出遅れたためか手柄をはやって軍規違反を犯しており、その責を問われて蟄居、徳川家を離れた。
そののち儒学を学び老母の世話のため広島で仕官していたが、母親を亡くしたのを機に京に戻り59才の時にこの地に凹凸かを造営した。以後90才までの約30年間を文人として書や漢詩などを楽しみつつ過ごしたそうだ。本阿弥光悦と並んで老人力炸裂!(この頃の文人墨客は長命の人が多かったようだ)
そういえば光悦寺も詩仙堂も寺に改められたにしては山荘風の趣が強いのは、両者の文人趣味が色濃く残った結果なのだろう。

丈山は松花堂弁当に名の残る文人僧・松花堂昭乗と交流が深く、その松花堂昭乗が近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称されていたのは有名である。年は離れているが丈山と光悦の交流もひょっとしてあったのかも?と考えるとちょっとワクワクしてきたりして。後日調べてみます(^^;)

次は紅葉名所として人気上昇中の円光寺へ。


▲東側庭園

▲下の庭園
まだ陽が当たってないので暗いです


▲丈山考案の僧都



 ●円光寺

慶長6年(1601)徳川家康が足利学校の学頭・三要元佶を招いて伏見に円光寺学校を開き、朝鮮伝来の活字で伏見版や円光寺版などの出版活動を行ったのが起こり。この地に移されてのち近年までは我が国唯一の尼僧の修学道場だった。境内は紅葉が美しく、十牛の庭には洛北最古と言われる栖龍池がある。また、現存日本最古の伏見版木活字村山たか女墓所などがある。

隣の詩仙堂から歩いてすぐなので、セットで拝観するかたが増えたに違いない。数年前よりも着実に人が多くなっているようだ。まだ朝だというのに。
ここの紅葉もやはり例年の華やかさは無かった。しかし池を中心とした庭園全体が多くのカエデで覆われているのでそれなりに色付きがあり、堂内から鑑賞することもできて楽しめる。それにしても人が多い! 回遊式庭園なので写真を撮ると対岸の人が大勢写ってしまう。

まず瑞雲閣(宝物館)で家康が作らせたという現存最古の木製活字などを見た。活字の周囲は混んでいたので屏風絵「寿老人図」のほうへ何気なく行ってみると、大覚寺で多くの障壁画を手がけた渡辺始興筆のものだった。解説によると始興は尾形光琳の弟子でなんと近衛家出入りの絵師だったそうだ。妙に感動してメモってしまった。

瑞雲閣を出て池の周囲を一回りしたあと石の水盤を使った水琴窟を見て、本堂に入りお抹茶を頂くことにした。しかし額縁庭園をゆっくりと楽しむ…というわけにもいかない。座敷の中程でグループのかたがたと一緒に座らせて頂いたところ、その目の前も縁側の外もひっきりなしにどんどん人が横切っていく。優雅にお茶を頂いてるのが滑稽なくらいだ。まぁこれも一つの思い出として大切にとっておこう。

お茶のあとはいろいろな角度から庭園の紅葉を愛でたあと、境内の裏山へ。山上には家康を祀った東照宮があるというが(あったっけ?)それよりも庭園の眺めを目当てに登ってみたのである。淡い色付きの葉が重なり合って深みを増している光景が思ったよりも綺麗で、登った甲斐があった。山と言っても低い丘なのだが。

次は初拝観の金福寺へ向かう。閑静な住宅街を抜けてしばらく歩き、西本願寺北山別院を通り過ぎると狭い石段の入り口が現れた。


▲まだ淡い色付きの十牛の庭
▲本堂から見た庭。一応額縁庭園
▲境内裏山から見おろす


 ●金福寺

貞観6年(864)安恵僧都慈覚大師の遺志により創建、荒廃していたのを江戸中期に鉄舟和尚が臨済宗南禅寺派の寺として再興した。鉄舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉がしばしば訪れたため本堂裏の庵は芭蕉庵と名付けられた。その後再び荒廃していたが、与謝蕪村が芭蕉庵を再建して句会を開き、また幕末の大老・井伊直弼の侍女でスパイ活動を行っていた村山たか女がここで晩年を過ごした。書院には蕪村や村山たか女の遺品が展示されている。

間口が狭いなぁと思いつつ石段を登り、逆光の散り紅葉が美しい小さな中門をくぐると、白砂とサツキの刈り込みの庭園が現れた。禅寺特有の緊張感は無く、小ぎれいな民家というかんじで親しみやすい。庭の端には紅葉も数本ある。詩仙堂を訪れてもこの金福寺まで足をのばすかたは少ないのか、とても静かだ。

小さいながら随分と奥行きや高低差のある寺で、細長い庭園の左奥にさらに細く続く道を登ると数段の生け垣が作られていて庭を見渡せる。そしてそのまた奥の小高い山上に茅葺きの芭蕉庵が建っていた。時期が早いためかこの付近には紅葉はあまり無かったが、ひなびた風情が蕪村一門の句会の様子を思い起こさせるようだ。さらに奥には与謝蕪村の墓があった。

再び下に降りて書院から庭園を眺め、書院内の展示品の数々を見た。
村上たか女という人のことはこの寺の歴史でしか知らなかったが、小説「花の生涯」のヒロインであり、安政の大獄で捕らえられ三条河原で生き晒しの刑にあったあと救われてこの寺で尼僧となったなど、波乱の生涯を詳しく知ることが出来た。「花の生涯」はNHK大河ドラマの第一作だったことも最近知った。元来歴史に弱いということがバレバレだ。>自分


寺を出て一乗寺下り松の横をさらに進み、雲母漬けで超有名な「穂野出」へ向かった。十数年来、噂は聞いていたが一度も買ったことがなかったので今回話のタネにと思い行くことにしたのである。
〈つづく〉


▲書院内から見た庭園
▲山上の芭蕉庵
▲庭園と芭蕉庵

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