箱庭的世界 >> 北条時宗 >> 六波羅探題プチ紀行


【六波羅探題とは】

大河ドラマ「北条時宗」では北条時茂・北条義宗(ヨッシー)が六波羅探題北方、北条時輔が南方を務めています。義宗と時輔は史実でもやはり同時期に六波羅探題に赴任していました。

探題の位置は現在の京都市東山区、六波羅蜜寺〜方広寺〜京都国立博物館あたりの一帯。南北が七条通〜松原通、東西は東大路〜大和大路の地域で、五条通を堺に北方と南方に分かれていました。
この一帯は平安時代末に平氏の一大集落となっていましたが、源氏勢の挙兵により都落ちする際に平氏自身の手で焼き払われています。また鎌倉時代初期には源頼朝が上洛した際に北方にあたる地を居所としていました。
承久3年(1221)、幕府成立後も政治の実権を握ろうと企てていた朝廷との武力衝突「承久の乱」で幕府軍が勝利したのち、治安維持のためここに置かれることになったのが六波羅探題です。六波羅探題は朝廷や西国御家人の監視という重要な任務を負っており、また平安時代の検非違使に代わって京内の警備権をも持っていたそうです。鎌倉から代々優秀な人材が派遣されていたことが想像できますね。例えばヨッシーとか。(^^;)
文永9年(1272)2月、鎌倉で起きた謀反に六波羅南方の時輔も加担していたとの疑いがかかり、執権時宗は兄・時輔成敗の決断を下しました。その命を受けた六波羅北方の義宗は南方に攻め入り、時輔を討ったとされています(二月騒動)。しかし時輔が確かに討たれたという確証はなく、書物でものちの時輔について様々な記述があるそうです。

そんな謎を秘めた人物であったため、大河ドラマ「北条時宗」では、南方の劫火の中から義宗によって密かに逃がされたのち奇々怪々・神出鬼没の波乱の人生を送る、という設定にされていました。というか現在もどこかで生存しているのではないかという噂もあったりして(^^;) ファンの間では。
しかし私としては、義宗によって命を救われたことへの感謝の念も心労をかけたことへの配慮も無い…というか義宗の存在すら覚えてないのでは?としか思えない点で、時輔に対して非常に不満が残るのです。

鎌倉時代末期、六波羅探題は後醍醐天皇の討幕計画を一時は阻止しましたが、有力な武士達の反幕の気運は徐々に高まっていきます。そしてついに元弘3年(1333)、足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受けて探題は陥落し鎌倉幕府は滅亡しました。 (すみません、ショボい説明で)



プチ紀行

●六波羅探題跡

2001年秋、紅葉狩り上洛のついでに歩いてきたので、本格的六波羅紀行とは言えないのですが・・・。
まず六波羅蜜寺へタクシーで向かいました。「六波羅蜜寺?今何かやってましたっけ?勉強のため?学生さん?違うの?ふ〜ん」と毎回判で押したような運転手さんの反応には照れ笑いを禁じ得ないのですが(^^;)
六波羅蜜寺を軽く(外観のみ)拝観した後、その東南に位置する洛東中学へ。校門内側にある石碑に「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」と刻まれています。見学の際は学校に申し出る…のが原則になっている…はずです。
碑には交通事故によるという亀裂が強烈に走っており、どことなく淋しげな印象がありました。周囲も静かで、観光客は六波羅蜜寺に学生がちらほらと来ているだけのようでした。今ではつわもの達を偲んでここを訪れる人も無いのでしょうか・・・ 居るんですけどね、我々がσ(^▽^;)  で、ここから北へ向けて歩きます。




●六波羅(かなり脱線)

平安時代以前、五条から今熊野のあたりは死者がうち捨てられる風葬の地「鳥辺野」でした。その入り口にあたる松原通の六道珍皇寺(←探題より北ですが)から西福寺のあたりは六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境界とされていました。
六道珍皇寺に祀られる小野篁はこの世とあの世を行き来して閻魔大王に使えていたことで有名ですし、付近には幽霊子育て飴の店などもあって魔界的イメージが先行していたのですが、実際の町並みはどこか懐かしげな静かな下町といった風でした。子育て飴の「みなとや」さんは開店休業中のように見えてなんだか気が引けてしまったので、ガラス戸の外から商品を眺めただけで去らせて頂いたのですが… かえって不審だったでしょうか…(^^;)

六波羅は古くは鳥辺野と同域とされており、平安中期に空也上人が念仏を唱えて供養するまでは成仏できない霊のひしめく地でした。
ここからはややこしいのですが、元は「六原」と書き「ろく」は霊の古語で「六」の字が葬送地をさすとか、また「山麓」や「どくろ原」の転訛であるとか言われているようです。
上に書いた六道の辻の「六道」とは人間の生前の行いによって行き先の決まる六つの冥界のことだそうですので、「六道」が「どくろ」の転訛だという説は違うかな?と思われます。が、六道の辻と呼ばれるあたりは「轆轤町(ろくろちょう)」という地名で、元はまさに「髑髏町(どくろちょう)」と呼ばれていたという話もありました。一方で「轆轤町」は焼き物の「ろくろ」に由来すると言われるなど、諸説入り乱れていて私にはもうよくわかりません(T▽T) 結局のところ妖しさだけがますます募る六波羅でありました。

そして、そんな妖しいイメージを払拭する事が使命であるかのような六原サービスセンター協同組合「ハッピー六原」、堂々と看板を掲げるこここそがこの地域最大の名所なのかもしれません(^^;)


▲幽霊子育て飴の「みなとや」さん

▲「ハッピー六原」撮影し忘れたので
芭雨さんに画像をお借りしました(^^;)



●建仁寺 勅使門

北方の北限が松原通ということですので建仁寺自体は探題エリアではありませんが、寺の南端にある勅使門が六波羅探題の北門を移築したものと言われています。ちなみに、勅使門なので一般人は滅多なことではくぐれません。
扉には鎌倉幕府滅亡時、天皇方の六波羅攻めの際の矢傷が残っており、矢立門・矢ノ根門などとも呼ばれています。資料によっては平重盛の居館の門とされていますが、もしかしてその重盛邸の門を探題北方が流用していたということなのでしょうか。
毎度のことですが、撮影に没頭していると通行人に不審がられました。
六波羅歩きはここで終わり。日を改めることにして翌年秋、東福寺へ。


※京都単独煩悩紀行・建仁寺レポは
こちら



●東福寺 六波羅門

東福寺の南端、光明院へ向かう側にある小さな六波羅門が探題南方の門を移築したものです。北方門と同様に矢傷(のような穴)が多く残っていました。二月騒動の際にヨッシー達が放った矢の跡なのでしょうか。煩悩! しかし激動の歴史を目の当たりにしてきたこの門もまた、人々から忘れ去られたかのような淋しげな表情を呈しているように思えてなりませんでした。

撮影に没頭していると、人通りは少ないのですがひっきりなしに出入りするタクシーにひかれそうになりました。紅葉期には混雑を避けた通用門としての役割を立派に担っているようです。こうしている間にも通天橋あたりは黒山の人だかりになっていることでしょう。


※京都単独煩悩紀行・東福寺レポは
こちらこちら

まことに申し訳ありません、南方の地は全然歩いておりませぬ。m(__)m
〈六波羅探題プチ紀行おわり〉


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